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KITAICHI STORY

KITAICHI HISTORY

初代 與左衛門(生年不詳~天保5年)は名もない漆器職人でありました。
北市家の菩提寺がある南加賀の北前船で栄える “橋立”付近の生と伝えられています。
安土・桃山時代に山中温泉の奥地(真砂)で始まった山中漆器は 既に江戸中期には温泉街にその産地としての拠点が移っておりました。
與左衛門は その山中温泉にて 主に旅館の器の修理を請け負って生計を立てておりました。


二代目 由兵衛(文化六年~萬延元年)の代に 働けども働けども暮らし楽にならない 

観音様にお詣りしたところ「井戸の底を探ってそこで見つけたものを大切にお祀りしなさい」とのお告げを受けその通り井戸を探りましたら オニギリ型の石を見つけ それを大切にお祀りしました。そこから徐々に暮らし向きは良くなり
明治24年 三代目 由平(天保13年~大正5年)49歳 4代目 初吉19歳の年

[北市商店]として 看板を上げるまでになりました。

  

会社は四代目 北市初吉(明治5年~昭和21年)時代に 飛躍的に成長し、温泉客だけではなく 国内外に商品を出荷する 地域でも超一流と言われる漆器屋に成長します。

大正121923年) 関東大震災の折には 「代金はもらえなくてもいいから 直ぐに困っていらっしゃる方々に漆器を送ってあげなさい!」と店中のお椀を東京のお客様にお送りし その後の関東進出に繋がったという逸話も残っているほど 豪傑でありながら 人情味あふれる商売人でありました。

その後 昭和6年(1931年)山中が大火に見舞われ 全てを焼失してしまったのを機に

新たに「北市漆器店」という看板を上げることになります。

当時 焼け野原になった山中温泉街に真っ先に「北市漆器店」の建物が建った と伝えられており、その勢いが伺い知れます。

続く昭和8年(1933年)には アメリカ シカゴ万国博覧会に出展。素晴らしい成績に国からの表彰も受けることになりました。   

         

それからの日本は太平洋戦争の真っただ中!

「贅沢は敵だ!」と叫ばれる中・・・漆器の需要は激減していたと思われますが・・・

近年 蔵から出てきた昭和20年(終戦の年)の新聞でくるまれていた 大量の木製のワインカップは 戦後すぐに しかも高級漆器が生産されていたという事実を物語っています。

四代目 初吉の亡き後を継いだ

五代目 北市英夫(明治33年~昭和38年)は “第3代山中漆器連合協同組合理事長”として漆器関係者のとりまとめに奔走。また、地元山中町町会議員・議長として長年 地域社会に貢献してこられました。

五代目亡き後、その遺言により「北市漆器店」は「有限会社 北市英夫商店」と名前を変えます。

六代目 北市敬介(昭和7年~平成9年)の時代になると 高度成長期! 作れば作るほど売れるという時代の中。「北市英夫商店」は安定期を迎えます。

昭和30年代より山中漆器が 樹脂の開発に成功すると いち早くその導入に参画し、地域産業のリーダーとして活躍されました。

父英夫に継いて “山中漆器連合協同組合 理事長” 

また産地初“第11代 日本漆器協同組合連合会 理事長”に就任。第7回国民文化祭 天皇陛下(当時皇太子殿下)御幸の際の御案内役を務められたりいたしました。

その他にも多くの役職をこなす とても人当たりの良い交際家で。周囲の人たちの信望を集めてこられました。

七代目 北市博之(現当主)は 急速な時代の流れの中

その時代に合わせた新ブランド≪安達瞳子≫≪うさぎや≫≪Kaze-ya style≫≪與左衛門≫などを積極的に発信。

≪金沢遊工房≫≪富山遊工房≫≪井上遊工房≫≪井上遊工房アイシティ21≫など百貨店における小売業も展開

お得意様からの信頼も厚く 地元百貨店【(株)大和】百貨店の 納品業者の会【大和会】の会長、京都老舗食器ブランドメーカー【(株)たち吉】の納品業者の会【青嵐会】の役員(幹事長)を長年務めさせていただいております。

平成11年には 初心に戻るという気持ちを込めて「有限会社 北市英夫商店」を

「株式会社 北市漆器店」に変更 現在に至る。

≪與左衛門≫は 北市漆器店創業130周年を記念し 初代與左衛門を尊んでつくられた

古くて新しいブランドです。

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